2011年2月1日火曜日

十二章 原動力

東京から地元松山へUターンしてまもなく11年が経ちます。ずっと松山で暮らす覚悟で帰ってきたわけではありません。放送局の仕事も少ない小さな町ですから、仕事がいつまで続けられるか不安でしたし。


エイジェントを退社しフリーになった直後、今後の身の振り方を家内と話し合いました。「将来自分たちが住みたい町の条件」を話し合っていた時のこと。


「将来自分が住みたい町の条件は、気候が温暖で、地震とか災害の少ない場所で、きれいな海と山があって、おいしい水と空気は当然のこと、魚や野菜、果物が安くておいしいとこ。あと、一年中いろんな花が咲いてるような所で、、、、。」

「それって、愛媛やん(笑)」。


まさに、灯台もと暗し。自転車で四国遍路を廻って自分の筋肉で四国という島の大きさを知り、地元に愛着を持てたのも一因かも知れません。


四国の海岸線を自転車で走ってみて、四国で一番好きな海は北条の海でした。


透き通った白砂。

打ち寄せる波がとことんやさしい。


北条の海は子供の頃の原風景です。うちの母方の祖父母は松山市木屋町で理容店を営んでいたのですが、戦災で焼き出され、北条の磯河内という所に移り住みました。今治市生まれの僕は、子供の頃、夏休みに一人でバスに乗り祖父母の家に行って目の前の海でよく泳ぎました。カラコギ(ハオコゼ)を踏んづけて足が大きく腫れ上がって痛い思いもしましたが、良い想い出です。

鹿島にも家族でよく行きました。あの頃の鹿島は今とは比べものにならないくらいすっごいたくさんの人でにぎわっていました。駅前通りも、人、人、人。駐車場入口は車の行列。そして皆の笑顔(僕の記憶が大げさにデフォルメされてるんでしょうか?)。たくさん人がいることがいいことだと言いたいわけではありませんが、当時は活気がありました。景気も良い時代でしたから。

安心安全に暮らせ、文化と経済のバランスがとれ、尚かつ地元の人が望むことを云々「まちづくり」とはなんなのか?いうことをいくら難しく考えなおしたところで、僕の北条鹿島のまちづくりの原動力は、あの当時の活気溢れる北条鹿島の景色をもう一度見てみたいと思う気持ちにあると思います。あと、とにかくここの海と空が好き。

「楽しくないと続かないよ」。顧問の早坂暁先生がそうおっしゃってました。