2011年3月30日水曜日

四十一章 この町はどんな町か

3月21日(祝・月)13時〜15時20分
北条ふるさと館にて行われた「早坂暁 坂の上の雲 まちづくり講演会 in 北条」

お越しになれなかった方々のために、先生がお話になった内容を要約して以下に記します。僕は仕事のため30分程遅れて会場に到着したので、内容が漏れていたり、間違っていたらすみません。

演題「この町はどんな町か」/講演 早坂暁

『北条の人はどうも自分の住む町に対し萎縮しているが、胸を張ればいい。北条というこの町は、日本史の中で4度も登場している。それもいつも国難の時に。

その昔、南方からやってきた海人が瀬戸内海に住み着いた。ここ瀬戸内海は日本人の原型を作った場所。文化もここから生まれた。古事記の中に真っ先に出てきてるのが証拠。

斉明天皇の時代、百済が新羅と唐の連合に襲われそうになり、当時の大和朝廷(日本)に救援を頼む。当時の日本は百済からの移民が多かった。親戚づきあいをしている国だった。当時は瀬戸内海沿岸でしか船は造られていなかった。日本の本当の総力を挙げ、500艘から1000艘と言われる軍船をそろえた。

そして、瀬戸内海沿岸の人を乗せて現在の北条の難波(なんば)辺りから百済救済へ援軍を出発させた。難波(なんば)とは入り江のことです。

その時、良い歌を作って観艦式で気勢を上げた。良い歌を作る担当官だったのが、女官の額田王(ぬかだのおおきみ)。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 熟田津で船出をしようと月を待っていると潮流も良い具合になった。今こそ漕ぎ出そう」。

この句の熟田津(にぎたづ)とは、道後だとか三津浜だとかいう説があるが、当時の松山では1000艘の船は集められない。また、九州でもない。瀬戸内海しか1000艘の船を造る力、乗る力もなかった。熟田津とは本当はここ北条のことです。

鹿島の頂上には「斉明天皇が鹿島の頂上に立って、朝鮮半島を眺めた」といわれる言い伝えの石が残っている。これは実は斉明天皇は西(海の方)を向いて見てたのではなくて、陸地を向いて何百艘の船が集まるのを見ていたのではないか。あの場所しか船を見渡すことはできない。ここに大本営があった。(ちなみに、日露戦争の大本営は広島)。

しかし、白村江の戦いは、ほとんど全滅に近い大敗。500艘行って帰ってきたのは10艘くらい。海が赤く染まったと唐の古文書に記録されている。捕虜として捕まった瀬戸内の若者は、2,30年苦労して帰って来た。

その後、斉明天皇は九州で急死。中大兄皇子は白村江で日本が負けて帰って来たので外国からの襲来におびえる。九州はやられるだろう、、、。九州がやられたら敵は四国にやってくるだろうと、天智天皇は大津へ都を移す。九州は捨てても良いと思った。当時は船の時代。敵は四国瀬戸内海を通って大阪に上陸して大和にやってくる。瀬戸内の水軍に外国勢を食い止めるよう防衛を任せた。

ここで水軍たちは力を強くした。瀬戸内には海門が二つ。第一の防衛戦を引く場所は、今治大三島の流れの速い海。もう一つは香川県の塩飽諸島。昔から瀬戸内は国の防衛船作りの本拠地。

高縄山に城をもっていた河野一族。河野水軍の出城は鹿島。(しかし、そもそも北条風早地方の中心地は柳原だった。)

北条が日本の歴史に登場する三度目が、源平合戦。日本国を真っ二つにした戦いの舞台が瀬戸内海だった。平家のご先祖「平清盛」は岡山の人。瀬戸内海の海産物で財を成した武士。

平家は福原(当時の神戸)に小さい帝を連れ都を移し、通称国家、貿易で立国をしようとする。日本の歴史の中では画期的なことだった。

宗の国は羅針盤、爆薬などを発明。詩人も持つ。これに憧れて平清盛は国を建てようとした。しかし、「平家にあらずんば人にあらず」、孫が天皇だからといってやり過ぎた平家は皆から反感を買い、源氏に「平家を討て」と密使が出た。追討の先頭に立ったのが奇襲の名人源義経。

「源氏に軍船などない」と思っていた平家は裏をかかれる。軍船を率いて源氏に助太刀したのが北条鹿島の河野通信。宮島厳島は平家の迎賓館。瀬戸内海の海の道を放っておいて山陽のルートを整備していく平家を憂いていた河野通信が平家に対し謀反を起こした。

鎌倉に幕府を開いた源氏。源頼朝は「第一の功労者は私」、「第二の功労者は、河野通信」と。

そして河野氏は伊予で強い権限を認められ伊予全体を治めた。これが河野水軍のピーク。京都から遠い鎌倉の地で朝廷の反感を買うような政策を進める源氏に天皇家は、源氏を討つよう指示。陸の戦いには弱い河野氏は5年後には鎌倉軍に捕まって東北の一関へ流されて死亡。

北条が日本の歴史に登場する四度目は、宗がモンゴルに滅ぼされ、大軍をもって元という国になって、どういうわけか高句麗を従えて日本に来襲した、いわゆる「蒙古襲来、元寇の役」の時。

二度やってきたが、二度とも嵐のため博多の海で沈んだ。この嵐を日本は「神風」と呼んだが、まったくのウソ。海で生きる人には台風が来る時がわかる。わざと台風の時期に合わせてやってきたとしか思えない。元を憎む高句麗の人たちと日本人との間になにか約束があって、わざと台風の時期に高句麗の人たちが元を日本にナビゲートしたのではないか。


その元寇の役の時、日本救済のため博多の海に戦いに行ったのが河野水軍、北条の河野通有だった

国難を支えた河野通信と河野通有。北条のご先祖様が日本を救った。今もこの北条から日本を救うぞくらいの気概がなきゃだけだ。

すさんでるこの町にも突破口はあります。やはり河野水軍の本拠地であった鹿島です
松山が北条と合併したということは、松山は港を持つことが出来たんだ。もっと北条を大事にして欲しい鹿島沖の安居島のことも忘れちゃダメ。今後鹿島は、東京にとっての湘南の江ノ島のようにすればいい。海民の心得を失ったらだめ。鹿島のような作ったような島が目の前にあってくれる。人工的に作ると100兆円あっても作れないですよ。かわいらしい見事な島がせっかくあるわけですから。

そんな話だったと思います。

 後半の、「鹿島は、東京にとっての湘南の江ノ島のようにすればいい。海民の心得を失ったらだめ。鹿島のような作ったような島が目の前にあってくれる。人工的に作ると100兆円あっても作れない。かわいらしい見事な島がせっかくあるわけですから。」という言葉が特に胸にきました。


東京に住んでいるとき、湘南に行くたびに「江ノ島は北条の鹿島にそっくりだなあ〜」といつも思っていたからです。


あと、河野氏が鎌倉と結びつきがあるからといえばこじつけになりますが、北条の地形や雰囲気が鎌倉とも、とても似ているように感じます。確か以前、関東から北条に来たどこかの大学教授も同じ事を言われてたような、、。

本日、松山市役所観光課へ「鹿島内に建つ使っていない店舗と寂れた施設の有効利用」の二度目のお願いに行ってきましたが、担当者がいらっしゃらなくて話だけ聞いていただきました。明日か明後日、また粘り強くお願いに行ってきます。早くしないと鹿島が一番輝くせっかくの夏に間に合わないですから(涙)。

左の沖にうっすらと見える島の写真は、昨夏に安居島から撮った「鹿島」
だと思っていたら、「小安居島」なんだそうです。